スティルルームの話

 

ペットワース・ハウスのスティルルーム(2015年訪問)

 英国の古い家を訪問する趣味がある。こまごまと考証をして、ある特定の時間の個人の生活風俗を再現してあるところは格別にいい。そうして訪ね歩く中で「スティルルーム」の100年前や200年前のようすを復元して公開しているのに出会うとすごく興奮してしまう。けれど、珍しいし、貴重なのでしかたない。

 スティルルームとは――オックスフォード英語辞書によるとこんな感じ(拙訳)。

a. 歴史的用法では、かつて家のなかで、蒸留器を備え、香水やコーディアル[※果物やハーブなどを用いた薬用飲料]を作っていた部屋。b. 後年の用法では、ジャム、ケーキ、リキュールなどを保管し、紅茶やコーヒーなどを用意する部屋。

 蒸留器とは、ハーブなどの植物の成分をアルコールや水に抽出する器具のことで、かつて、この器具と部屋を使って薬や香水を作るのは館の女主人の役目だった。大邸宅では19世紀までに、以前は女主人の管轄だった「仕事」の一部を「ハウスキーパー(家政婦長)」と呼ばれる女性使用人のリーダーに担当させるようになった(使用人の少ない中流家庭では、もちろん引き続き女主人自身が兼任した)。ハウスキーパーの職務には、下級のメイドの指導・監督、上等な陶磁器の管理、日用品の買い入れやスタッフへの支給といったものがあり、家庭薬と、ジャムやピクルスなどの保存食を作ることも含まれた。

 薬や薬用飲料が商業的に大量生産される時代がくると、蒸留器は姿を消して、スティルルームの役割が変わる。ヴィクトリア時代までにスティルルームは「女主人が家族のための薬を作る実験室」から「ハウスキーパーがジャムや保存食や焼き菓子を作るサブのキッチン」になった。つまり、19世紀末の大邸宅において「アフタヌーンティーの支度」がおこなわれたのはここだった。

 料理人がハウスキーパーの仕事を兼ねる家や、シェフが晩餐料理も茶菓子も作る家なら、スティルルームを独立した部屋として置くことはなかったかもしれない。中流階級の都会のタウンハウスにはもちろんない。今の時代にカントリーハウスの再現展示を企画する人たちの気持ちになれば、大きなキッチンを復元しきったところで力つきて、見た目にちょっと似た設備のある副次的な部屋までは手が回らないということもあるだろう(あちこち巡ってみると、家族の使う豪華な応接間や居間や寝室を公開していて、使用人区画からは「ヴィクトリアンキッチン」だけ見られるようにしてあるところも多かった)。 

 そういうわけで、スティルルームが一般公開されていると、いつもは隠されている秘密の場所が明かされたような気分で嬉しくなってもしょうがないのだ。私の旅に付き合ってくれる人たちにはそういうものだとあきらめてもらいたい。メイドの寝室や執事の作業室はここ10年でよく見かけるようになった気がする。次に英国旅行が可能になったらあそこやあそこに行きたいな、昔は写真撮影不可だったけど今はOKのところもあるし、展示変えをされたところもありそうだし再訪もしたい、と、資料を読み返して妄想する日々だ。


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