メイドの目で見たヴィクトリア時代のインテリア[再録・前編]

『ヴィクトリア時代の室内装飾 女性たちのユートピア』(LIXIL出版 2013年8月発行)に寄稿した文章です。版元品切れとなり、新品では購入できなくなっているようなのでここに再録します。 2回3回に分けて掲載予定です。


美しい部屋を作ったのは誰?


 厚いカーテンやカーペット、家具、装飾品、絵画、写真、茶器、食器、花や観葉植物……。ヴィクトリア時代の中流紳士淑女の家は、無数のもので溢れていた。室内装飾は、その部屋の住人、とりわけ女主人が、外部の客に対して、趣味の良さや自分の属する社会的地位を示す手段となる。では、それらを磨き、手入れしていたのは誰だったのか?

 少なくとも建前上は、住み込み家事使用人の仕事とされていた。産業革命の影響下で急速に豊かになりつつあったヴィクトリア時代の英国で、中流階級以上のレディと認められるには、労働に手を染めてはならないことになっていた。つまり、掃除や料理などの家事の実作業をまかせる家事使用人(ドメスティック・サーヴァント)を、最低1人置くことが、中流階級とそれ以下のラインを引くひとつの基準となっていたのだ。

 貴族の大邸宅のように多くの使用人を雇って、それぞれに専門的な役割を与えるのが理想ではあった。家全体の指揮をとる執事(バトラー)や、華やかなお仕着せ姿で扉の開閉や給仕を担当するフットマンなどの男性使用人を雇ったり、馬や自家用馬車を買い、馬の世話係や御者をお抱えにするのも憧れであった。けれど、大半の中流階級の家にはそこまでの贅沢はかなわない。そうなると女性の使用人、すなわちメイドが雇われた。女性使用人は、同種の仕事をする男性より給料が低く、だいたい半額が相場だった。

 使用人を雇うことで示す社会的地位の階段は、まずメイド・オブ・オールワークと呼ばれる女性を1人雇うところから始まった。彼女は掃除や料理、家事を一手に引き受ける。1861年の家事指南書『ビートン夫人の家政の書』は、一段階余裕が出来たら、次に子守役のナースメイドを雇うよう勧めている。そして次には女性のコック、使い走りの少年(フットボーイ)と収入に応じてスタッフを増やし、仕事の分担を細かく変えていく。年収1000ポンドの上層中流階級に仲間入りしたら、掃除係のハウスメイドを上級と下級の2人雇い、そして大人の男性使用人も追加する。豊かになった英国ヴィクトリア時代の世相を背景に、メイドを雇って地位を示したいという人びとの願望はふくらんでいった。

はたきを持つハウスメイド。19世紀の後半までに、メイドは午後にはこのような黒と白の制服を着るようになった。名刺判写真(カルト・ド・ヴィジット)。


 メイドの総数は増え続け、ヴィクトリア女王の時代が終わってエドワード七世が即位した1901年の世論調査によると、女性家事使用人の数は130万人に迫った。働く女性全体のなかでも最大の職業集団だったのである。彼女たちがどのように部屋を保っていたのか、日々の仕事を見てみよう。


室内の現実――日々の掃除


「わたしはその家で唯一の使用人でした。朝は6時に起きなければなりません。そしてわたしの仕事はあまりにたくさんあるので、夜は11時まで働くことになりました。女主人は、とても厳しくチェックしますからねと言いました。家は常にしみひとつなく保たねばなりません。結局のところ、あのひとたちは専門職の階級で、非常に高い水準に慣れていたんです。家中を掃除せねばなりませんでした。てっぺんから始めて下の階まで、掃いて、磨いて、すみずみまで。正面玄関前の階段を、前の道まですっかり磨き石(ハースストーン)をかけて白くするのに、たっぷり1時間かかりました。わたしはほんとうにまじめにやったのです」


 20世紀初頭のエドワード7世時代に、ロンドンの歯科医の家でメイド・オブ・オールワークとして働いていたリリアン・ウェストールの証言である(John Burnett『Useful Toil』より引用)。口うるさい女主人のもと、休憩込みで17時間の長時間労働。100年前の英国の家を隅々まで美しく保つ苦労は並大抵ではなかったことが伝わる。掃除機やカーペット・クリーナーはすでに発明されてはいたが、まださほど普及はしておらず、すべてが手作業。そして、正面玄関前の階段を白くすることに手間ひまかける、というのも象徴的だ。元メイドの証言を読むと、たいていの家で早朝の階段磨きは重視されていたらしく、5時半や6時といった早朝から、冷たい風のなかで石段を磨く辛さを回想しているひとは多い。主人たちにしてみれば、自分の家にメイドがいることを周囲に示すために必要だったのだろう。



ブラシを使って暖炉を磨きたてるメイド。「Cassell's Family Magazine」1893年


「てっぺんから下の階まで」とリリアンが言うとおり、ロンドン中心部の中流階級の家は縦に長い。地下にはキッチンや倉庫があり、地上階に客間や晩餐室などの客を迎える部屋、2階にも応接間、家族の寝室は上のほうの階にある。一方、メイドの寝室は、不便でせまくるしい天井裏か、じめじめして薄暗い地下のキッチンの近くに追いやられていた。

 メイドは朝、雇い主家族がまだ寝ているうちにキッチンのレンジに火を入れ、雨戸やカーテンを開け、暖炉を掃除した。灰をかき出し、金属の火格子を磨く。燃料は石炭で、燃えるとすすが飛び散り、灰と燃え殻が残った。当時の室内は、現代以上に掃いたり拭いたりする必要があったのだ。石炭はふつう地下の倉庫に貯蔵したので、燃料を切らさないよう何度も階段を往復して各部屋に届けなければならない。明かりはオイルランプやロウソクが主流で、のちにガスが登場するが、これらの手入れも使用人の担当である。


家族のために重い湯を運び、3人がかりでシャワーに注ぎ入れる。「Punch」1850年


 水道管やボイラーのパイプを上の階まで届かせるのはまだまだ難しく、家族の入浴や洗顔のため、地下のキッチンで沸かした湯を手作業で運ばせる家も多かった。またトイレに関しても、たとえ水洗トイレの部屋が完備していようと、夜間は室内便器(チェンバー・ポット)を使う習慣だった。汚水の入った容器を運び下ろし、中身を空けて洗って戻すのもメイドの仕事だ。

 ごく一部の最新鋭の大邸宅には、19世紀からすでにエレベーターが備えられていたが、一般的な中流階級の家にそんなものはない。絶え間なく長い階段を行き来し、重い荷物を運び続けるのがメイドたちの日常だった。13、14歳で働き始める若い女の子たちにはどんなにか厳しい仕事であっただろう。

[後編中編につづく]

※この文章が気に入った方には『図説 英国メイドの日常』をおすすめいたします。


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